2016'03.13.Sun
あの日から5年が経ちました。
世の中もそうですが、個人的には激動の5年間となりました。まあ原発やら復興やら、色々と書けることはあるのですが、このブログはそういうブログではありませんから、今回は単純に5年前のあの日の私について。
2011年初頭の私は、一浪して挑んだ受験で思うような結果にならず、たいそう落ち込んでおりました。食べることが何よりの楽しみな私が、1週間何も食べる気が起きないほどの喪失感に苛まれていました。
そんな折、何とかもぐりこんだ大学への進学を控え、3月11日は祖母とともに家で過ごしていました。当時は受験失敗のショックで何もやる気が起きず、ただだらだらと惰眠をむさぼる毎日。当日起きだしたのが12時という体たらくで、完全に昼夜逆転の生活を送っておりました。
地震が起きた時間は部屋のパソコンでWikipediaか何かを見ていたのだと思います。揺れた当初はそこまで大きくないと思っていたのが、どんどんと大きくなり、しまいには立っているのもやっとという状態になりました。当時住んでいた、というか今も住んでいるのですが、茨城県の古河市は震度6強という強い揺れだったそうです。しかし揺れが強くなると同時に停電してしまったので、その規模を知るのは少し後の話になります。
当時の私の部屋(今も同じ部屋です。二階にあります)には、パソコンが置いてある机の上には棚があって、そこにはずらりと小説が並んでいました。本棚ではなかったので、強い横揺れによって頭上から本が降り注いできます。これは危ないと思った私はすぐに部屋を出ました。部屋を出ると同時に、二つ隣の自室でテレビを見ているであろう祖母はどうしているか気になり、強い揺れに耐えながら祖母の部屋へと向かいます。
祖母はその時、ベランダに腰かけてタバコを吸っていました。火は危ないと思ったのか、すでにタバコは灰皿の中で、祖母は柱につかまって動けなくなっていました。私は祖母に「大丈夫だ」と声をかけると、部屋の中でもっとも不安定だったテレビを支え、そのまま揺れが収まるのを待ちました。
揺れが収まると祖母とともに外に出て状況を確認します。幸いにして外の様子はいつもと変わらず、いっせいに外に出てきた近所の人と、停電によってマヒした幹線道路の動きだけがいつもと違うところでした。
その後は停電で何もすることがなく、余震におびえながら数日間過ごしました。幸いにして断水はしなかったので助かりましたが、午後7時には部屋も真っ暗で何もすることがないうえ、昼まで寝てしまったので寝るに寝れず、苦しい夜だったのを覚えています。
そんな折に撮ったのがこの写真。撮影時間を見ると7時半すぎですが、家の明かりはおろか街頭でさえ落ちているのが印象的で撮った写真です。
停電が復旧したのは翌々日くらいでしたでしょうか。自分たちのことで精いっぱいでほかのところにまで気が回っていませんでしたが(ラジオから情報を得てはいました)、テレビからの映像によって被害の深刻さと、徐々に上方修正されていく死者数に震え上がったのをよく覚えています。
それから5年、その「何とかもぐりこんだ大学」も「何とか」卒業し、社会人一年目が終わろうとしています。住んでいる地域は内陸部ですから、さすがにこの地で地震の爪痕を感じることはないものの、未だに戻らぬ人を想う人々がいることに、まだまだ傷痕の大きさについて考えます。
高校・大学時代の仲間も各地に散り、今では会うことも少なく、5年の間に自ら人生を終わらせてしまった人もいます。5年という月日は、私にとっては刹那に過ぎ去り置き去りにした日々です。それは変わらぬ日常をおくれているということであり、何よりの幸福なのかもしれません。
ここに仙台駅で2005年に撮った写真があります。家族旅行での一幕ですが、このあと私たち家族は気仙沼と女川でそれぞれ宿をとっています。
どちらも活気にあふれた港町で、宿の大変美味な海鮮料理に舌鼓を打ったのを今でも覚えています。海沿いに宿はありましたから、その後は推して知るべし、でしょう。
願わくば、またあの料理が食べられんことを。
2016年3月13日 仲排
世の中もそうですが、個人的には激動の5年間となりました。まあ原発やら復興やら、色々と書けることはあるのですが、このブログはそういうブログではありませんから、今回は単純に5年前のあの日の私について。
2011年初頭の私は、一浪して挑んだ受験で思うような結果にならず、たいそう落ち込んでおりました。食べることが何よりの楽しみな私が、1週間何も食べる気が起きないほどの喪失感に苛まれていました。
そんな折、何とかもぐりこんだ大学への進学を控え、3月11日は祖母とともに家で過ごしていました。当時は受験失敗のショックで何もやる気が起きず、ただだらだらと惰眠をむさぼる毎日。当日起きだしたのが12時という体たらくで、完全に昼夜逆転の生活を送っておりました。
地震が起きた時間は部屋のパソコンでWikipediaか何かを見ていたのだと思います。揺れた当初はそこまで大きくないと思っていたのが、どんどんと大きくなり、しまいには立っているのもやっとという状態になりました。当時住んでいた、というか今も住んでいるのですが、茨城県の古河市は震度6強という強い揺れだったそうです。しかし揺れが強くなると同時に停電してしまったので、その規模を知るのは少し後の話になります。
当時の私の部屋(今も同じ部屋です。二階にあります)には、パソコンが置いてある机の上には棚があって、そこにはずらりと小説が並んでいました。本棚ではなかったので、強い横揺れによって頭上から本が降り注いできます。これは危ないと思った私はすぐに部屋を出ました。部屋を出ると同時に、二つ隣の自室でテレビを見ているであろう祖母はどうしているか気になり、強い揺れに耐えながら祖母の部屋へと向かいます。
祖母はその時、ベランダに腰かけてタバコを吸っていました。火は危ないと思ったのか、すでにタバコは灰皿の中で、祖母は柱につかまって動けなくなっていました。私は祖母に「大丈夫だ」と声をかけると、部屋の中でもっとも不安定だったテレビを支え、そのまま揺れが収まるのを待ちました。
揺れが収まると祖母とともに外に出て状況を確認します。幸いにして外の様子はいつもと変わらず、いっせいに外に出てきた近所の人と、停電によってマヒした幹線道路の動きだけがいつもと違うところでした。
その後は停電で何もすることがなく、余震におびえながら数日間過ごしました。幸いにして断水はしなかったので助かりましたが、午後7時には部屋も真っ暗で何もすることがないうえ、昼まで寝てしまったので寝るに寝れず、苦しい夜だったのを覚えています。
そんな折に撮ったのがこの写真。撮影時間を見ると7時半すぎですが、家の明かりはおろか街頭でさえ落ちているのが印象的で撮った写真です。
停電が復旧したのは翌々日くらいでしたでしょうか。自分たちのことで精いっぱいでほかのところにまで気が回っていませんでしたが(ラジオから情報を得てはいました)、テレビからの映像によって被害の深刻さと、徐々に上方修正されていく死者数に震え上がったのをよく覚えています。
それから5年、その「何とかもぐりこんだ大学」も「何とか」卒業し、社会人一年目が終わろうとしています。住んでいる地域は内陸部ですから、さすがにこの地で地震の爪痕を感じることはないものの、未だに戻らぬ人を想う人々がいることに、まだまだ傷痕の大きさについて考えます。
高校・大学時代の仲間も各地に散り、今では会うことも少なく、5年の間に自ら人生を終わらせてしまった人もいます。5年という月日は、私にとっては刹那に過ぎ去り置き去りにした日々です。それは変わらぬ日常をおくれているということであり、何よりの幸福なのかもしれません。
ここに仙台駅で2005年に撮った写真があります。家族旅行での一幕ですが、このあと私たち家族は気仙沼と女川でそれぞれ宿をとっています。
どちらも活気にあふれた港町で、宿の大変美味な海鮮料理に舌鼓を打ったのを今でも覚えています。海沿いに宿はありましたから、その後は推して知るべし、でしょう。
願わくば、またあの料理が食べられんことを。
2016年3月13日 仲排
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茨城県古河市在住。「いばらぎ」ではなく「いばらき」です。
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