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豚汁模型!

鉄道模型のごった煮をゆるくほそぼそ楽しむブログ

2024'04.23.Tue
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2016'04.16.Sat
熊本が大変なことになっているようです。情報が錯綜しており、何が真実かわからない状況なのであれこれと言及しませんが、被災された皆様の無事を願っております。

 さて、影響のない地域ではいつも通りに過ごすことも重要ですので、このブログではいつも通りに記事を進めていきます。
 いつもですとこのような書き出しの場合は模型を買った場合が多いのですが、今回はいつもと毛色の違う記事をお送りします。
 きっかけはツイッターでした。ある日にラックレールの話題になり、ラックレールが廃止になったあとのレールの転用先について興味深い言及がありました。
 ラックレールを用いたアプト式についておさらいしておくと、車両側に取り付けられた歯車(ピニオンと呼びます)と、二本のレールの間に取り付けられたギザギザのレール、これをラックレールと呼ぶのですが、車両側の歯車と線路側のラックレールとをかみ合わせて急こう配を登っていくシステムです。日本では大井川鉄道井川線で採用されているほか、かつての碓氷峠で使用されていました。碓氷峠では、

本線上としては最初の電気機関車として知られるEC40や、

ED40やED42といった電気機関車が使用されていました。お察しのように、現在の碓氷峠では廃止されたシステムで、ラックレールもそれに併せて取り外されたのですが、一部が排水溝のふたや金具など他の用途に転用されて、現在でも見ることができます。横川駅や横川駅の周辺では、いたるところで見ることができますね。

 そして、冒頭のツイッターの話。なんでも、ラックレールの転用先として最遠なのが古河駅なのだそうです。古河といえば宇都宮線の駅ですから、碓氷峠との縁は薄い地です。なぜなんでしょうね? というわけで、用事を済ましがてら見てくることにしました。

 あっさり見つけました。場所は、古河駅南口を出て、右に曲がって線路沿いを行ったところにあるJRバスの事務所の敷地内です。自転車の駐輪場も兼ねているため、簡単に入ることができます。
 確かにこれはラックレールです。どうやら縁石のような使われた方をしているらしく、コンクリートに固定されていました。それならば普通に縁石を置けばいいと思うのですが、ますますわかりません。

 使われている場所も謎です。ラックレールが置かれているのは、バスの詰所の物置か、あるいはごみ集積場といった趣の小屋の前です。それにしてもわかりません。
 現在の古河駅は高架駅ですが、ラックレールが使用されている時代の古河駅は高架駅ではありませんでした。高架駅になったのは1984年で、現在JRバスの詰所も高架の下にありますから、この位置に国鉄バスの施設ができたのもそれ以降ということになります。国土地理院の空中写真で見ても、高架化される前のこの辺りはプラットホームであろうことが推測できます。碓氷峠でアプト式が廃止されたのが1963年ですから、明らかに時代が合いません。碓氷峠のアプト式が廃止されてからずいぶん経った後で設置されたことになるのですが、それにしてもどこから持ってきたもので、何のために設置されたのかも謎のままです。どなたかご存知の方は、教授いただけるとありがたいです。

 それではまた(^^)ノ

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2016'03.30.Wed
以前に西武鉄道の博物館がほしい、というような話をしましたが、京王は最近になって自前で博物館というか、車両展示スペースを作りまして、私のような古い電車が好きな変わり者には嬉しい施設となりました。
 場所は多摩動物公園で、近隣の大学関係者以外にはあまり縁のない場所ですが、随分前のことにはなりますが幸いにして近くに用事ができましたので、これ幸いと覗いてきました。撮ったときは大変に暑い日だったはずですから、なんともはや、という感じです(^^;

 車両展示スペースはこんな感じ。以前は鉄道模型の運転場があった場所なのですが、見事に車両が入っていますね。ちなみに、隣接する資料館もあるのですが、こちらは子供向けの感が強いので割愛します。HOゲージレイアウトもありますが、子どもが動かせるようになっているだけで、一斉に車両が動き出すようなイベントも行われません。この辺りは、今後充実していただきたいな、と思うところですが、多摩動物公園の隣という立地だけに難しいのかもしれません。
 それではさっそく展示車両の紹介へ。

 2400型2410号、1940年製造というには古めかしく、また14mという小さなサイズの電車ですが、当時の京王は路面電車規格で、大型車が入ってくるのは1960年ごろになります。このあたり、当時は帝都電鉄という別会社だった井の頭線では17m車が幅を利かせており、現在とは違う状況が面白いところです。
 1963年の架線電圧の昇圧によって大半の仲間が廃車になった後も、支線で使われていた同車ですが、保安装置の変更がアダとなって廃車になりました。その後は多摩動物公園駅前で保存展示されたのちに若葉台検車区に移り、また多摩動物公園へと戻ってきたわけですから、一種の里帰りですね。
 この小さなかわいい電車、個人的に好きな電車のかなり上位に来る電車で、若葉台時代から見たかったのですが、常設展示されることになり、嬉しさもひとしおです。

 こちらは2010型2015号、2410とは打って変わってカルダン駆動の高性能車です。ここに来なくとも実は銚子電鉄で乗れる(!)のですが、それはまた別の機会に。
 初期高性能車ということで、世代的には小田急2200型や東急5000型などと同時期の製造となりますが、製造両数の少なさゆえか、あまり日の当たらない形式です。先の2410号のような14m車を電装解除してトレーラーとして編成に組み込んでいたことも特筆できますね。
 末期には普通電車専用となりますが、どうやら京王沿線の大学出身の母親が乗ったことがある様子。冷房もないこの電車がホームに滑り込んでくると「ハズレ」だったそうな(笑)

 京王5000型は、もう詳細を説明するのも野暮というほどの名車ですね。
 この電車、事業用車となってから見に行こうと思えば見に行けたのですが、タイミングが合わずに実見できないままでした。幸いにして各地の私鉄で今も動いており、富士急行で実際に載ることができたのはうれしかったですね。

 富士急行ではリバイバル色として、京王電鉄時代の塗装でも活躍しています。置き換えは時間の問題でしょう。

 続いては6000型。こちらは近年まで活躍していたのでお馴染みの方も多いでしょう。私も乗ったことがあります。

 なんとか写せた優等運用の写真から。パンタが切れているというどうしようもない写真ですが、せっかくなのでご笑覧下さい。
 
 こちらは井の頭線用の3000型。こちらも知らない人はいないですよね。長い間活躍しましたが、つい近年、京王線上からは姿を消しました。今は各地の地方私鉄で第二の人生を歩んでいる車両が多くいますね。

 3000型は、待っていれば来る手軽さも相まってよく写しました。最末期にも優等運用によく入り、急行灯を点灯させて最後の頑張りを見せている姿を何度となくカメラに収めましたっけ。今では1000型の天下で、足が向かなくなりましたね。

 京王の博物館、走っている姿を拝めなかった車両たちが多数おり、ありがたい場所です。ほかの電鉄会社もこのような施設を作っていただきたいですね。特に西武、京成、小田急あたりは、見たい電車を車庫に保管していますから、ぜひともお願いしたいところです。
 それではまた(^^)ノ

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2016'01.11.Mon
真岡というと自宅から1時間半ほどということもあり、我が家では「冬にいちごを食べに行くところ」という印象が強いのですが、ここ最近で蒸気機関車の数がずいぶんと増え、北関東では随一の鉄道ミュージアムになってきた感があります。
 今回はその真岡駅に隣接する「SLキューロク館」にD51が新たに加わり、整備が完了したということでお披露目イベントがあり、参加してまいりました。あれこれやっているうちにずいぶん経ってしまいました(^^;
 まずは新加入組以外の紹介を。


 貨車が多いところなので、少し省きながらご紹介。貨車は来歴がはっきりしない車も多く、不明な点が多々ありますがご容赦ください。
 写真中央は蒲原鉄道のワ12で、1930年に新潟鉄工で作られた車です。この当時にあらゆる地方私鉄に納入されていた標準車ですね。
 その左は1940年に日本車両で作られた一畑電鉄ト60です。1940年製造というには少し古風な外観なのですが、本当に1940年製造というのかすらもはっきりしないのが、貨車の面白いところであり、難しいところでもあります。
 さらに左は国鉄のヨ8016です。真岡に来てずいぶん経っていた車両で、整備がなされず荒れ放題だったのですが、かなり綺麗になっていました。

 この編成のしんがりを務めるのがワフ16です。この車も複雑な経歴を持っています。
 元国鉄の木造ワフを水島臨海鉄道で鋼体化したもので、案内板には製造は国鉄鷹取工場で1910年製と書かれていますが、上回りは1958年に新しく作られたものです。
 以上、ヨ8000を除いた3形式はいずれも地方鉄道で過ごしてきたということもあって、ここではなくてもっとふさわしい場所で保存してほしいという気もしますが、適切な管理のもとで保存されるというのは大変に喜ばしいことで、歓迎です。


 貨車はキューロク館の対岸にも留置されていますので簡単にご紹介します。戦後の標準型ヨ3500を二段リンク化して制限速度を引き上げたヨ5000です。真岡には2両いますが、表記類は読めなくなっています。ごらんのとおり、状態は悪いです。


 こちらも車掌車の一種ですが、荷物室も備えた緩急車です。全国に広汎に使われたワフ29500ですが、こちらは前掲のヨよりは状態はいいです。以前はもう1両いたのですが、こちらは行方不明。解体されたんでしょうかね。
 そのほかトラ70000が数両いますが、番号がはっきりしないため割愛します。


 キハ20は2両存在します。上が247番、下が213番です。この2両が実際に国鉄真岡線で走っていたかどうかは定かではありませんが、3セク転換前の真岡線の主力車両はまぎれもなくキハ20でした。個人的には蒸気機関車よりもこちらを動態保存していただきたいところですが、いすみ鉄道などの話を聞くに、現実は簡単ではないようですね。


 同様にDE10も2両存在します。上は1014号機、下は95号機です。どちらもDE10ですが、来歴はずいぶんと異なります。
 1014号機は客車の回送用に導入したDE10の部品取りとして大阪からやってきた車両でしたが、元をたどるとJR四国のアイランドエクスプレス牽引機という華々しい経歴の持ち主です。近年まで大阪貨物ターミナルでスイッチャーとして働いていました。
 95号機は国鉄時代に廃車になった機関車で、ずいぶん長いこと真岡に放置されたままになっています。DE10の0番台は早期に廃車されたものが多く貴重な生き残りなのですが、真岡での扱いは粗雑の一言に尽きます(^^;

 さて、施設の名称が「SLキューロク館」というくらいですから、9600型ももちろんいます。
 この49671も一癖ある機関車でして、通常運転席は左側にあるのが常識ですが、なんとこの車は右側に運転席がついているのです。これは、所属していた五稜郭機関区時代、働き場であった青函連絡船の航送貨物の積み込みを行う際に、構内が右カーブの連続であったために運転士の視界を確保する必要性から改造されたものです。
 面白いのが、この機関車は1976年に廃車となるのですが、末期に右側運転台のまま他区へと移っており、68年には北見、廃車寸前の75年には滝川(廃車前提の移動?)に転属しており、他車が左側に運転台があるにもかかわらず、この機関車だけは右側運転台のまま仕業に就いていたのです。おそらくは入れ替え専用機であったからであると思われますが、現場ではたいそう扱いづらい機関車であったことは想像に難くありません。
 そんな特殊な機関車が、実は「生きている」というのは、存外にすごいことなのかもしれません。

 この黒光りした動輪からもわかるように、この機関車は「生きて」います。石炭ではなく圧縮空気を利用してのもののため、牽引力は往時には到底及びませんが、それでも動いている蒸気機関車というのは迫力のあるものです。

 そんな9600の後ろには青い客車が。サボには「日本海」の表示がありましたが、これはスハフ44のためフェイクです。
 スハフ44という車両は、80年代の終わりまで長らく活躍したスハ43やスハフ42の北海道版で、道内では急行ニセコを中心に幅広く活躍していました。このスハフ44 25も北海道内で長く活躍した車両でしたが、青函連絡船が退役する際に羊蹄丸の中に取り込まれ、長らく船の科学館の収蔵品として保存されていた車両です。私も船の科学館で見た覚えがあります。
 その後、羊蹄丸が解体されることになり、中に保存されていたこの車は真岡鉄道に引き取られることになりました。
 現在では保存車兼休憩室となっているのですが、その内部がまた素晴らしい。


 羊蹄丸に取り込まれた際に何も改装をしなかったため、本当に国鉄そのままの状態で保存されています。あまりにそのままなので、普通に乗ってしまって大丈夫なのかといぶかしんだくらいです。
 どれだけの人がこの車内のコンディションに気づけるのかはわかりませんが、大切に引き継いでいってもらいたいものです。


 さて、いよいよ本命のD51です。といっても、この日は公開初日だったこともあり満足な写真は撮れず。申し訳程度に写真を載せて、プロフィールの紹介と行きます。
 真岡に来る以前は静岡県で保存されていたD51 146ですが、生涯を北海道で暮らした根っからの道産子です。1938年に追分に配置されてから、1976年に岩見沢で廃車になるまで、一貫して道内で活躍してきました。長万部に長く配置されていた機関車で、長万部は函館本線を中心に運用していましたから、49671とももしかしたら函館で顔を合わせていたかもしれません。
 状態はいたって良好で、今にも走り出しそうなほどによく整備されていました。ここの蒸気機関車はどれもペンキを塗りたくった無粋なやりかたはしておらず、さすがは実際に機関車を動かしている会社だな、と感じました。
    
 9600は圧縮空気での動態保存でしたが、いよいよこちらは本当に蒸気で動いている機関車です。
 真岡鉄道が蒸気機関車を多数持つきっかけとなったC12 66です。こちらはもうお馴染みですね。現役時代は中央本線の上諏訪機関区に長く在籍した機関車で、入れ替え用としての在籍だったようです。
 最近の検査で異常が見つかったようで、早く復帰してほしいですね。

 そして蒸気で動くもう1両は、こちらもお馴染みC11 325です。この日の主役でした。
 新製配置は茅ケ崎で、茅ケ崎区にSLの配置がなくなるまで相模線で活躍しました。その後米沢に移って入替と左沢線用に使われ廃車となります。左沢線のSLサヨナラ列車を牽引したのもこの機関車です。
 真岡鉄道の所属ではありますが、使い勝手がいいこともあって他所へ貸し出されることの多い機関車で、真岡鉄道を走っている姿というのは少し撮りづらいという変わった機関車です。

 最後は、4機の機関車すべての汽笛吹聴を行ってイベントは終了となりました。いやあ、うるさかったのなんの(笑) しかし蒸気機関車の迫力ある姿は、普段電車を追っかけている私からすれば非日常であり、楽しいイベントでありました。

 それでは今回はこの辺で。次回は模型になると思います。

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2015'12.07.Mon
あれよあれよという間に12月がやってきてしまいました。早いです、本当に。1週間はあれだけ長くて週末が待ち遠しいのに、1か月となるとすぐ過ぎ去ってしまいます。年を取ったせいですかね(二十代男性の意見)

 そんなこんなで横瀬を後にし、秩父鉄道に乗り継いで三峰口まで向かいます。
 そもそも秩父鉄道に乗ったのが5年ぶり、三峰口までいったのはかれこれ15年ほど前のことでしょうか。

 当然ながらこの電車が主力のころです。真ん中の車両は非冷房で、前後の車両に乗客が集中していましたっけ。
 今では東急のステンレスカーが押し寄せ廃車となりましたが、後継の103系よりよっぽど長生きしましたので、幸せな車両だったのではないでしょうか。
 そんな101系も1両も保存されることはなく、しかもこれからご紹介する保存車たちは、みな朽ち果てようとしているものばかり。C58の運転で一般には車両保存には積極的に見える秩父鉄道も、現実には厳しいようです。


 そのC58もスタンバイしておりましたが、私の目的はこっちです、


 今回秩父鉄道を訪れる最大の目的はこの車の状態を確かめることでしたが、想像以上に悪かったです。床下にもぐってみましたが、鋼体はそろそろ限界にきているような気がします。
 この車はデハ101形といって、高度経済成長期から昭和の秩父鉄道を支えていた車両です。秩父鉄道のオリジナル車であり、当時の地方私鉄では車体を別の私鉄どうしであっても共通化して
、コストを抑えようという取り組みが積極的にされていた時期であり、そういった状況での自社発注車というのは白眉の存在です。分類でいうと、製造年代と日本車両製であること、それに旧型車の機器流用車であることから、新潟交通や松本電鉄、岳南鉄道などに多数いた日車標準車体の車と近縁といえるでしょう。
 以前(といっても15年も前ですが)来たときは手前の階段から中に入ることもできたのですが、ちらとのぞいてみると、やはり木製の床板が抜け落ちています。朽ち果ててしまうのもそう遠い未来ではないのかな、と思ってしまいました。


 続いてはデキ1です。依然として盛業中の貨物列車ですが、その始祖がこの機関車です。ほかにも何台が保存されたはずですが、まだあるのでしょうか。
 ウエスチングハウス製のこの機関車、名鉄などにも同型車がいたことでも有名ですが、よほど優秀だったらしく、日本車両などでそのまんまのコピー品が作られていたことは面白い歴史です。ウエスチングハウス謹製の車とともに名鉄で近年まで仲良く働いていましたね。


 ED38という車番、上のデキ1と同時期に活躍した機関車ですが、その構造とともに一風変わった機関車です。
 この機関車、もともとは現在の阪和線を作った阪和鉄道という私鉄が製造した車両です。関西のファンにとってはお馴染みと思いますが、当時の阪和鉄道は並行する南海に対抗するため、日本の電車史上のエポックメイキングとなる高性能かつデラックスな車両を多数製造して投入しており、それら俊足の電車から逃げながら貨物輸送を行うために作られたのがこのED38という機関車です。
 自慢の健脚で高速性能は素晴らしいものがありましたが、牽引力はどうやらイマイチだったらしく、高速運転などという言葉からはかけ離れた秩父鉄道では二線級の扱いだったようです。
 元阪和鉄道の車としては貴重な生き残りだけに、関西方面の博物館で整備してあげてほしいものですが、どうなのでしょうか。

 ここからは保存されている貨車をアラカルト的にご紹介。

 スム4000。15t積の鉄製有蓋車です。セメントにとって天敵の水分を普通の有蓋車よりも防ぐために自社で発注され、袋詰めのセメントなどを運んで活躍していました。袋詰めセメント輸送の廃止などによって次第に消えましたが、今も救援車として数両が残っているようです。

 
 テキ100。30t積の鉄製有蓋車で、上のスム4000の大型化版といったところでしょうか。運用方法も目的も同じで、消滅した理由も同様でした。


 ワキ800。30t積の有蓋車で、国鉄のワキ5000とは同型です。運用のされ方は上で紹介した鉄製有蓋車と全く同じようですが、鉄製有蓋車を作り続けなかったのは何故なんでしょうかね。国鉄車と同型ですから、コストの問題でしょうか


 トキ500。36t積の無蓋車で、国鉄のトキ25000とは同型です。今でいうところのホキ10000のような、石灰石をそのまま積んで輸送するような車両でしたが、国鉄の貨物取扱縮小にともなって運用停止となっています。その後は、救援用として数両の車籍が残っているようです。


 ワフ50。10t積緩急車です。少し注意深く見ればわかりますが、旧型のスムを改造して車掌室を取り付けた緩急車です。いうなれば鉄製緩急車でしょうか。通常の車掌者に比べて居住性はどうだったんでしょうかね。貨物列車に車掌を乗せなくなったため廃車になりました。


 さて極めつけはこちら。全国探してもなかなかいない形態の車両です。ボギー車の車掌者は全国探してもこれだけだとか。
 ヨ10。旧型のヲキ(石灰石用ホッパ車)を改造した車両ですが、きわめて簡易的な構造をしており、取ってつけたような車掌室と、むき出しになった基礎がなんともユーモラスな車両です。この車も、貨物列車に車掌を乗せなくなったため廃車になりました。

 三峰口をあとにし、西武池袋線経由で岐路につきましたが、西武秩父でやってきた電車に思わず驚いてしまいました。

 何ら特別なところはない4000系ですが、西武秩父駅に滑り込んできたのは急行の池袋行きです。西武に関しては全くの素人なのでダイヤを調べてみると、この列車はどうやら三峰口発で、しかも次の横瀬で長瀞発の列車と併結して池袋まで8連で行く列車のようです。分割併合を行い、都心のど真ん中しかもラッシュ時にも関わらず、2扉の車が堂々と行くなどという時代錯誤なことをやっているのは東武だけかと思っていましたが、西武鉄道もなかなか面白いことをやりますね。4000系の模型が欲しくなります。

 それでは、シリーズでお届けした小旅行もこの辺で。またお会いしましょう(^^)ノ

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2015'11.21.Sat
前回の続きからはじめます。
 横瀬には電機機関車以外にも保存されている車両があるので、そちらの紹介から。

 製造時期を物語る湘南マスクの351系です。現在は旧番号のレタリングを入れて保存されていますが、こちらのほうが馴染みがありますので、今回の記事ではこの名前を使います。
 戦時中に大量に焼け出された木造国電を買いあさった西武は、その国電のパーツを使って独自の通勤電車を次々と生み出します。当時の西武は増え続ける沿線人口に対応するため異常な勢いで電車を作り続けており、この351系もその流れの中で生まれた車両です。
 前面こそ最新鋭のデザインである湘南マスクを採用していますが、焼け落ちた国電骨組みを再利用した17m3扉の車体であることや、機器類は全く国鉄時代のままである点など、随所に国鉄の趣を残しています。
  1954年製のこの電車、廃車は1990年です。当時、多摩湖線の国分寺駅が20m車の入線ができなかったために遅くまで残っていたものですが、3連の中間につないでいたサハは何と国鉄から譲り受けた戦前製のものをほぼそのまま使っていたというのだから驚きです。


 お馴染み、レッドアローですね。あまり関係ないですが、KATOのレッドアロー、悩みました(^^;
 ヘッドマークの付かないオリジナルの姿で保存されています。富山地鉄に行った仲間は、ヘッドマークを付けた状態のまま活躍していますね。


 いつの間にやってきたのか、101系もいます。西武というと、私はやはりこの顔ですね。
 101系自体は支線でまだ活躍していますが、そちらはN101系と呼ばれる後期型で、701系などと同じ顔のこちらの前期型は全て廃車されてしまいました。


 西武の3000系というと、西武ファン以外にはあまり馴染みのない形式と思いますが、それもそのはず、400両以上が製造された2000系に比べると、2000系の製造数は90両弱であり、マイナーな形式でした。
 ここに何故保存されているのかといえば、松本零士氏の描いた銀河鉄道999のラッピングが施されているからでしょう。ですが、著作権には使用期限があり、それを過ぎると企業は著作を使用できないことになっています。ということは、3000系がここに居られるのもあとわずかしかないのでは? とも思います。


 日本の大手私鉄でディーゼル機を保有していた例はあまりないと思います。その中で西武は多くの専用線を抱えていたこともあって、多数のディーゼル機関車を保有していたのですが、このD16はブリジストンの工場で働いていた車両で、工場閉鎖後はこの横瀬で入替用として働いていました。
 現在も動くことができるようで、イベント時の入替にはこの車が使われているようです。スイッチャーの世界はあまり詳しくないのですが、日本車両で作られたこのタイプの車両は日本全国
いたるところで見ることができました。しかし近年急速に数を減らしており、貴重なものとなってくるやもしれません。


 西武は貨物輸送も手広くやっていたことは何度もお話していますが、その名残である貨車も保存してあります。手前が緩急車のワフ105、奥が鉄製有蓋車のスム201です。ワフはKATOから最近発売されましたね。
 にしても保存車に乗っちゃって大丈夫なんですかね。いや、立ち入り禁止のロープやテープは巻かれていないのでいいんでしょうが、来場者のモラルとかそういう話以前の問題として、研修庫が雪で崩れた今、西武鉄道は保存車をこのままにしておいていいんでしょうか。考えさせられます。


 最後に、シートにかけられたこの車を紹介します。動輪の形からして蒸気機関車であることはわかりますが、このようなイベントにも関わらず公開されないというのもおかしな話です。
 この機関車、作られたのは何と1887(明治20)年というから驚きです。当時の日本では蒸気機関車の製造技術はありませんでしたから、製造はイギリスのナスミスウィルソンです。元は日本鉄道で働いており、作業局A8という形式でした。そこから西武に払い下げられて4号機関車となったものです。
 これだけ古いものですから、この時代の機関車で現存機というとほぼ皆無で、博物館等であるなら目玉として展示されてもよいくらいの貴重な機関車なのですが、西武は電気機関車にしか興味がないらしく、10年以上前から放置されたままになっています。
 若葉台の車庫に保存車を保管してあった京王は、少し前に展示施設を作って一般公開を始めました。横瀬にある保存車も、舶来の電気機関車が完璧な状態で多数保管してあるという点でかなり貴重ですし、保谷にある2両の保存車も含めて、常設展示できる施設を西武所沢工場の跡地(2000年に閉鎖されましたが未だに手つかずで残っています)あたりに作ってほしいですね。その折には、この機関車も整備してくれるのではないか、と思ってもいます。

 というわけで横瀬のイベントでの保存車はすべて紹介いたしました。
 この後時間があったので、秩父鉄道の三峰口まで行ってきましたが、その詳細はまた後日ということで。
 それではまた(^^)ノ

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